今回は、日本狼の絶滅の要因の一つとされている、狼駆除について、盛岡藩の記録などから見ていきます(255)。

参考文献
○東北芸術工科大学東北文化研究センター「東北学06」(はる書房、2015)

[音楽] こんにちはチコまろチャンネルです今回は 毎月10日頃に新作を公開している犬と 日本狼シリーズです日本狼は人が絶滅させ たのかというテーマで書籍に掲載されて いる題材を紹介して考察していき ますこの日本狼のシリーズは今回で35本 目となりますこれまでも様々な書籍から 紹介してきましたが今回も江戸時代の東北 のを元に執筆された記述を見ていきます 今回引用した参考文献は2015年に発さ れた東北芸術効果大学東北文化研究 センター発行の東北学06でその中から 村上和市の執筆した江戸時代の狼を紹介し ますそれでは最初に盛岡班における狼捕獲 の実態について前回の第34作目の動画で は広崎班において狼の捕獲者は漁師などに 限られていたと紹介したのですが今回の 盛岡班においては様々な身分の人々が狼を 捕獲した記録が残っていますここからは顧 文女からの抜粋です1つ目は現在の青森県 の五戸の村村で子供23人を食い殺した狼 がいたがその狼を数人で取り囲み槍で突き こしたこの数日後にも八戸で男女数人を 食い殺したという狼を八戸場外で数人が 取り巻いて切りこしたこれはまず人食い狼 を殺したという話 です2つ目は岩県の黒沼村現在の花巻氏の 肝入りの馬屋に狼が隠れていたのでそれを 取り巻くと屋敷りんへ逃げ入ったその狼を 百勝2人が棒で打ちこしたその後この狼は 足軽が盛岡まで自賛し盛岡城のそばの中野 橋本の川原に埋めたこれは馬屋にいたとは いえ隠れていた狼を殺したという話です3 つ目は青森県の桃石村のよすというものが おそと呼ばれる罠で狼1匹を取って脳した そこで褒美として金一風を与えられたこれ は罠を仕掛けて捕獲それを上納して褒美を 得たという話です4つ目は3の軍のありと 現在6箇所村で狼の子を1匹見つけて自賛 した100勝に大尾の300問が与えられ たこれは狼の子を捕まえて大尾が与えられ たという話です当時の時代背景を踏まえて 見ていきますと1つ目は分2年暦1662 年の出来事なので類哀れみの発令以前の 時代の話なんですが2つ目は原60年西暦 1697年は発令後の話ですこの時期は 幕府によって生類哀れみの政策が断行され ていましたそのために狼の死体を上下まで 届け埋めていますただしこの100勝が何 らかのとめを受けたという形跡はないよう です3つ目の放映3年西暦1706年と4 つ目の放映8年西暦1711年の出来事も 類哀れみの霊の元でしたが狼を取ったもの に褒美が与えられています3つ目の乙と いう罠で狼を取ったよというものや4つ目 の狼の子を自賛したものは100章だった ようですが狼をとってもそれがとめられる どころか評価されていましたこれら盛岡班 の出来事は広崎班で襲いかかってきた狼を 叩き殺したものが処罰されていたのとは 対象的な状況でしたそれでは次に狼の捕獲 記録について盛岡班では分を問わず足軽 町人百姓などの様々な人が狼を取ってい ました過労石雑書という書物から拾い上げ たところ全部で105匹64件の狼の捕獲 記録がありましたこれにはおじ量ごしがり という巻き狩りによって鹿に混ざって捕獲 された14件の狼も含められています狼の 捕獲者は大きく3つに分けられます1つは 半種でありついで求人鳥打寄木同心別所 足軽などの火九半いわば在高家臣であり もう1つは町人や百姓漁師まや野狼となど の一般の良民によるものでしたこのうち阪 などによる巻狩りは数千人の施工を動員し て広範囲を取り巻くものですこれらを集計 したところ狼の捕獲数は阪の巻狩りが42 匹14件で下級半が26匹25件で一般の 良民が25匹23件でした残りは不明2件 12匹でしたこのように盛岡班においては 官民を挙げての総力で狼を捕獲していた ことが分かりますそして傾向としては報 より前西暦1715年以前は阪や阪神に よる捕獲が多く今方以降1716年より後 は漁師などの良民による捕獲が多くなり ますこれらの良民には法美を与えることで 狼の捕獲を奨励していたようです次に5つ 目の話ですが正月2日の夜の井国午後10 時頃に盛岡場内の加部前に狼が現れました 初めは狼かどうかが分からなかったのです がそれに対し犬がひどく騒ぐので心もなく 思い追い詰めて峰打ちしましたすると声も 出しませんでしたそこでこれは狼に違い ないと思い籠が尺という雑用の妊婦の2人 に立ちで切りこさせましたそこで籠がしに 魚一折と六石の2人に銭をご間門とに問が 与えられましたこの話でも狼を捕獲した ものにを与えいますそこで興味深いのは狼 の識別法です夜の暗い中ではすぐさま狼と は確かめられなかったようですが峰打ちし ても声を出さないことから狼に違いないと 判断していますそれは犬とは異なって狼は 吠えないという知識が前提となっています この話で気になるのは場内にまで狼が現れ ていることではないでしょうかなぜ現れた のかまた結構簡単に小人数で追い詰める ことができているのも不思議に思います次 は馬の被害について過労石雑書という書物 には広く領内全域の事件が書かれているの ですが用人書雑書という書物には牧場の馬 の被害が詳しく書かれていますこの用人所 雑書には今方3年西暦1718年から名和 4年西暦1767年の50年間の間に狼に 襲われれて死亡した牧場の馬279匹が 記録されていますそしてこれらの馬よりも 多くの狼が駆除されています要人所雑書 から記録を拾い上げたところ共3年から 名和6年に451匹174件の狼が捕獲さ れていましたそれらの捕獲者は年代によっ て変化しており初めは求人などの役人が 多かったのですが今年西暦1724年には 百勝や漁師まなどの両人となって老101 年西暦1726年からは狼鳥という専門家 が捕獲者の主体となっていますさらに6つ 目の話ですが岩手県のの大感所から狼14 匹の捕獲が報告されましたその内訳は漁師 と野守が鉄砲で狼を4匹射殺しており 100勝3人が高狼を10等煙ですべ殺し たものでした狼は春2子を生み津で育てて いたのですがその巣穴を煙でいして捕獲 する手法が推奨されていましたこの他にも 高神が23匹あるいは高神を15匹捕獲し たという記録もありまさに当時は狼の殲滅 が図られていました隣の八の反でも津の狼 を9匹捉えて大穴を掘って入れておきその 大穴に母狼が入ったのを捉えたという記録 がありますこうした手法によって狼をやし にするべく容赦ない駆除が行われていまし た人や馬を襲うということで駆除が始まっ たのですがその予防ということでしょうか 被害を未然に防ぐために素の子狼までも 捕獲してしまっていたようですそれでは 最後に罠と毒殺について当時の盛岡班の 特徴にあげられるのが罠の乙って狼を捕獲 していたことですそのおで狼を取ったと いう記録は法栄3年にありましたがその前 の小方3年西暦1646年や明暦4年西暦 1658年にもあり8の反でも遠方2年 西暦1674年などにもありますこのおは オ平とも呼ばれる木星の罠であり木を行使 に組んだかにおしを置くその下を通る獣が 綱に足をかけると留め具が外れて上からい が落下して獣を圧殺する仕掛けであるこの 落下式圧殺罠を狼の通り道に仕掛けて捕獲 していたこのおは熊を得る罠として広く 使われており広崎班秋田班会津班などの 漁師まの記録にも三建されるこの圧殺罠は 近代以降にも広く使われてきたものである 工藤光氏は白神山地にこの圧殺穴である白 を仕掛けて数多くの熊を取ってきたという 宮城県黒川郡大和町松沢の早坂一氏もシー と呼ぶこの罠で熊を取ったというそれを 盛岡班では狼に使っていたというのが興味 深いこうして盛岡班では様々な両方で狼を 捕獲していた鉄砲やオを使ったりツをいし て取っていたのだが最も多くの実績を上げ たのは毒殺である要人所雑誌には451匹 もの狼の捕獲記録があったこのうち捕獲者 が分かる406匹の内訳を示すと狼鳥は 203匹の50%でのは37匹の9%で人 後足軽が17匹の4%で量子まが28匹の 7%で百勝は45匹の11%で村民100 勝等の表記のないものは76匹の19で ある狼鳥の実績は突出しており全体の捕獲 数の50%を占めているその狼取が得意と した両方が毒殺であったこれは死んだ馬の 肉に毒薬を仕込みそれを食べた狼を取ると いう両方である毒薬は魔人マム草トカと頬 の木などをその狼鳥が調合してこの毒薬に より薪の近くの狼が大量に駆除されていた こうした狼の捕獲記録は文学年西暦 1812年を最後に見られなくなる同様に 狼あれも19世紀半ば以降には限られた ものになっていく18世紀初めまでは狼に より人が食い殺されその後も馬の被害が 続いていたしかし薪の馬を守るために狼鳥 がの狼を捕獲していったこうして狼が駆逐 され19世紀にはその生息域も限られた ものになっていたと思われるそして明治期 の前半には青森県や岩手県から狼が姿を 消していったその兆候はすでに江戸時代の 後半に始まっていたのである必死のまとめ としては江戸時代の前半に狼は人や馬を 襲い食い殺していたそうした被害は北日本 の広崎班や盛岡班の反日期に記録されてい たしかしそれらの狼は足軽や百姓狼鳥など によって駆除されていったのである東北 地方の狼の捕獲記録は江戸時代後半には なくなりましたそして狼あれによる人や馬 の被害もなくなっていきましたそして東北 の狼の姿も消えていきまし たこれは東北地方の話なのですが日本全体 ではどのような状況だったのでしょうか 絶滅の要因の1つとして今後も調べていき ます視聴者の皆様はどのように考えますか 様々なご意見あろうかと思いますので コメントをお待ちしておりますさてそれで は狼シリーズの次回予告です次回のテーマ は江戸狼の絶滅と感染症についてまとめ たいと思います日本狼の絶滅と感染症に ついても資料が集まり次第まとめたいと 考えていますがまずは江狼を見ていきます 人は狼の生息地をどの程度脅かしたの だろうか人が苦情したのは牧場や居住地に 出没したものだけなのではなかろうかその ように考えているチコまろチャンネルでし た

5 Comments

  1. 貴重な情報ありがとうございます。東北地方では大正時代にはシカやイノシシが絶滅状態であり、わずかに仙台藩の金華山や五葉山に保護されたシカが少数生存していたようで、奥羽山脈や北上山地、阿武隈山地などではシカもイノシシもいませんでした。最近では関東地方からイノシシが阿武隈山地、奥羽山脈に移動して見られるようになってきましたが、シカについては未だに復活が出来ていません。イノシシ、シカがいない状況は狩猟や病気が元になったと思いますが、明治期にはすでにこの状況だったと思われます。岩手県遠野地方近辺ではオオカミの頭骨を魔除けとして祭る風習がありますが明治期以降に確実にオオカミがみられたかどうかはわかりません。しかし仙台藩の五葉山周辺では昭和40年代まではオオカミらしきイヌ科動物を見たという人がいたことも確かで、五葉山は遠野地区と隣接しておりシカも現存していたこともあってオオカミの痕跡が最後まで伺われた地域と言えそうです。東北では絶滅状態のシカが何故五葉山にいたかといいますと仙台藩の禁足地であったためです。

  2. 人とその社会活動が存在しなければニホンオオカミが絶滅する事はなかったでしょうから、その意味では人が絶滅させたのは確かでしょう。
    ただ、人による駆除が絶滅の直接原因かというと、あやしいと私も思います。
    犬による遺伝子汚染や人間の活動による圧迫で江戸後期から減少傾向にあったニホンオオカミが狂犬病伝来で急激に数を減らし、そこに駆除も一因として加わったのでしょうね。
    オオカミは打っても吠えないという識別法は、そもそも簡単に打たれるオオカミがいるのか、確かに野生動物であるオオカミは犬のように無駄に声は立てないでしょうけど打たれても声を出さないという事があるかなど甚だ物の話という感じで疑問ですが、興味深いですね。

  3. 狼が生きててほしかった僕としては……とても悲しい情報です。人と狼がほど良い距離で生活できなかったのだろうか?
    省みて、狼がいなくなった今の日本、鹿と猪の被害が拡大するばかりですよね……天罰なのではないか?と思ってしまいます。

  4. 人喰いオオカミの話について
    昔は今ほど人々の知識がなかったので、イヌによる被害をオオカミによるものと勘違いしてカウントしたものはそれなりにあると思っています。その一方で人喰いオオカミもまた存在していたのは事実だと思います。理由としてはやはり急速な開墾による山野でのエサ不足が原因の一つだと考えています。その他に当時は亡くなった方を土葬で埋葬していたそうですが、これも人喰いオオカミを生み出していた原因だと思います。その他国内での戦争で亡くなった兵士の死体をオオカミが食べる機会があったなど、現在話題になっています秋田県の熊害との共通点を感じます。一度人を食べたオオカミがそれを子供に伝えることで一定数危険なオオカミが存在していたのではないでしょうか。当時のヨーロッパでの多くの人喰いオオカミの記録も同様の理由から発生しているのではと考えています。現在オオカミは人間にとって危険な動物ではないと結論づけられていますし、個人的にもオオカミが危険だとは思いませんが、これは時代の変化によってオオカミを人間に引き付ける要因がほぼなくなったからだと思います。

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